ハードロック、時々ソフトカバー

心模様は雨のち晴れるでしょう。

人間の内面に見るアンドロイド性

こんばんは。台風19号の猛威が世間を賑わせていますが、みなさまはご無事ですか?

 

みなさんは最近どんな本を読みましたか?

僕はフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだ。この作品はとてつもない名作として語られていて、いつか読みたいと思っていた。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 

 

 

大テーマ

すべての存在における人間性とアンドロイド性の相克

アンドロイド(作中ではアンディーと蔑称で呼ばれる)って機械のイメージが強いけれど、その機械的な何かが人間の中にあって、それと人間性が入り乱れるというのがこの小説の大テーマで、現代社会人が読んだ方がいい作品だと思った。僕自身SF作品は読まないけれど、単なるSF作品ではなくて「人間とは何か」とか「これからのソサエティ5.0をどう生きるか」とか情報やデジタルツールにまみれた生活をどう考えるのか深く考えるきっかけにもなった。

 

余談。

最近バス・電車通学をしているのだが、車内でずっとスマホを見ている人の割合が増えている。

知識基盤社会」、「ソサエティ5.0」、古い言葉を使うと「ユビキタス社会」。こんな言葉が政府によって提唱されている。結局のところの情報媒体推進を勧めている。素晴らしい。

でも、機械に囚われているだけで本当に良いのか?四六時中画面を見ていることで、目の前で起きていること、目の前のものの本質を見ることができるだろうか?

これは価値観の違いだろうけど、僕はモノの本質を見たい派の人間。だから、友達とかと遊んでもあまりスマホを見ないようにしてる。その人の本質を理解したうえで関わりたいから。これに依存している人は結局のところ、モノの本質を見抜く力が著しく低いと経験上感じる。で、見抜けないから機械やデータに頼る。こんなスタグフレーション的悪循環が生まれる。

とどのつまり、機械化された人間が生まれる。ほぼ“アンディー”。

教員志望なので、“アンディー”にはなりたくない。みなさんはどう思う?みなさんは“アンディー”になっていないだろうか?

 

では、また。